会報記事


2000年日本プロゴルフ選手権
聖戦の軌跡
平成12年5月11日(木)〜14日(日)

中川一省(ゴルフ・ジャーナリスト)
【プロフィール】
1953年北海道生まれ。
慶大法学部、日大芸術学部を中退。
雑誌編集者を経てノンフィクション、劇画原作、小説を手がける。
日本ゴルフジャーナリスト協会理事。
日本オリンピックアカデミー会員。

日本プロ選手権
■ 最終成績(6901ヤード、パー71) ■

合計 1R 2R 3R 4R アウト イン

-4    佐藤 信人 280 = 68 71 69 72 (35 37)
-3    桧垣 繁正 281 = 69 72 70 70 (36 34)
    東   聡 281 = 67 69 71 74 (39 35)
-1    平塚 哲二 283 = 71 73 72 67 (35 32)
    飯合  肇 283 = 69 72 74 68 (36 32)
    水巻 善典 283 = 72 69 73 69 (39 30)
    田中 秀道 283 = 71 69 71 72 (36 36)
0    桑原 克典 284 = 70 74 70 70 (37 33)
    佐々木 久行 284 = 77 69 68 70 (37 33)

「ダウン・ザ・フェアウェイ」
かの聖球ボビー・ジョーンズが全てのゴルファーに示した命題に
日本のトッププロたちはどう立ち向かったか
 20世紀最後の、そして2000年代の幕開けとなる、記念すべきPGAチャンピオンシップは、まだ陽が明け切らぬ午前4時30分、乗用モア(乗用芝刈り機)に乗った数人のグリーンキーパーがフェアウェイに乗り入れたところから開始された。3年前からの徹底した準備にぬかりはなく、いまさら、緊張することも、焦ることもなかったが、やはり本番は格別で「自分のひと刈りがトーナメントに与える影響」を考えたならば、いくら「いつもと同じ」を装っても、どこか慎重に、そして入念に為らざるを得ないのである。

ギャラリーの応援を背に1番ホールからスタート

 3年前、日本最古の歴史を誇る日本プロゴルフ選手権開催が決まったとき、早川社長はじめ高須専務ら中枢スタッフは「何かメジャートーナメントに相応しい取り組みを」との思案を繰り返し「トーナメント時に使用するティーグラウンドを全ホール改修し、9、11番ホールのティー新設、フェアウェイとラフの洋芝にケンタッキー・ブルーグラスを混合する」(高須専務談)などの措置を施した。
 そうした取り組みの結実が「2月にコース管理状況の視察をさせてもらったのですが、その段階で、すでに何時トーナメントを開催しても大丈夫な状態に仕上がっていました」(植田浩史トーナメントディレクター)と言う高い評価につながっていった。
 だが、まるで問題がなかったわけではない。もとより、トーナメントコースのセッティングは、競技主催運営側とコース側との綿密な打ち合わせを元に作り上げられていくものだが、その競技主催運営する側の意思の統一がなされていなかったが為に、若干の戸惑いを生じさせたのである。「フェアウェイの幅は平均20ヤードとし、グリーンの硬さはコンパクション13〜14とし、速さはUSGAスティンプメーターで12フィーとする」という見解と「全米オープンでさえ、フェアウェイの幅は平均40ヤードなのだから、そんなに狭くする必要はない。またコンパクションも速さも、ただやみくもに硬く、速くしたのでは、トーナメントとしての面白みに欠ける」との見解に分かれた。
 前者は頭の中で難度を高めたもので、後者は実践で培われた意見である。こうした意志の分断は、実際にメンテナンスにあたるコース側にとっては「お気の毒」な状況でしかない。結局、狭められたフェアウェイの拡張は、時間的に困難であるとし、そのままの状態で決行し、コンパクションは11〜12とし、速さはスティンプメーターで10〜11フィートにする結論が出されるに到った。後者の意見を出したのは、倉本昌弘大会運営委員長を始めとする新執行部の面々であった。そして、平野浩作チーフトーナメントディレクターの指揮の下、トーナメントコースは舞台として完成していった。
 私的感想を言わせてもらえば、これは大正解だったように思う。予選を終了した時点で6位タイ、13人の選手だけがアンダーパーを記録しているのだから、難易度的には申し分ない。また、予選2日間でのベストスコアが67というのは、残り2日間でベストを尽くせば、この時点で4オーバーにいる選手にもチャンスはあるということになってくる。予選終了時において、トップから10ストローク差の4オーバーまでの選手は39人いた。トップグループの選手が4日間ベストな状態のゴルフができるとは限らない。まさに観る者をワクワクさせる展開となっていったのである。
 4月のキリンオープンで優勝し、波に乗っていた片山晋呉は、3日目スタート前に「このセッティングだと、タイガー・ウッズクラスが出ていれば別ですが、どんなにいいゴルフをしても65を切ることは難しいと思います。良くて、やっぱり67でしょう。みんな、自分のゴルフコンディションと相談しながらやっているでしょうけれど、僕の場合は68がベストではと思ってますから、今日はそれを目指しますよ。トータルで1オーバーになったら、一番上が見えてきますから」と言って1番ティへ向かっていった。昇り坂にあって、海外指向が強い選手、ましてや今季優勝している片山晋呉が「65を切ることは難しい」と断言するコースは、まさしくチャンピオンシップに相応しいコースなのである。片山の予想通り、スコアは4日間を通じて67が最高となり、65を切る選手は現れなかった。

カレドニアン15番 490ヤード PAR5(大会はPAR4)

 強者に宿る先見の明。片山はこのカレドニアンGCでの教訓を生かし、翌週のKSBカップで今季2勝目を飾った。「常に一段高いレベルのゴルフを目指し続けながらプレーしていますが、僕の場合は、トーナメントといえば、やっぱりメジャーとなります。メジャーを獲ることを目標にして調整していけば、たとえ勝てなくても、自分をレベルアップさせる何かは与えられると思います。メジャーでのコースセッティングを制することができなければ、その先にある海外メジャーへの道は拓かれませんから…」
 平成2年、カレドニアンGCのオープン当初、早川社長は「将来的には、ここで多くのトーナメントを開催していただき、日本のツアーのレベルアップに貢献したい」と語っていた。その意思はすぐに実行となり、91年、メジャーチャンプ、リー・トレビノを迎えての国際シニア競技開催となった。さらに翌年の92年、PGAフィランスロピー開幕後、より米ツアーレベルに近いコースへとの指針を元に、冬でも蒼々とした芝でのプレーを実現すべく巨費を投じて『エバーグリーン計画』が為された。その集大成が、このPGAチャンピオンシップであったのではないだろうか。「もうちょっとフェアウェイを左右に広げたかったけれど、それ以外はセッティングは成功だったと思うのだけど…」「海外で学んだものがすごく生かされているって感じがした…」「そう言ってもらえると、すごくうれしいですよ…」
トッププロが技の限りを尽くすコースセッティング
 86年、オハイオ州インバネス・クラブで開催された全米プロ、そして93年、ニュージャージー州バルタスロールGCで開催された全米オープン。そこで戦う倉本昌弘を追わせてもらったことがあった。ことに、93年の全米オープンでは、地区予選から挑戦する彼を、倉本の好意により、同宿、そして3食を共にしながらの同行取材をするという貴重な体験をさせてもらった。実は、その時から倉本は、メジャー競技におけるコースセッティングの在り方を、将来の日本のツアーのために、徹底研究していたのである。
 「USGAのコースセッティングは、一般的にものすごく難易度が高いとされているけれど、これを形だけ真似していたら、ただ、攻略不可能なアンフェアなセッティングになりかねない部分が沢山ある。だから、日本で難易度の高いセッティングをするなら、日本人プレーヤーの特性に合わせたオリジナルなものを実現していかないと、選手もギャラリーの人たちもゴルフを楽しめなくなる」全米オープンのコースセッティングは、まるでコンピュータではじき出したかのような機械的なセッティングをする。もちろん、悪い部分ばかりではない。たとえばバンカーのすぐ上にカップを切ったショートホールなどは、そんな日は前部のティグラウンドを使用し、距離を短くするなどの措置が採られるのである。だから、同じショートホールでも1日目はロングアイアンで的確な距離と方向性を求められ、2日目は128ヤードといった短い距離ながら、的確な距離と方向性に強力なスピンボールを要求されてくる。さらに距離のない、日頃はメンバーたちのバーディチャンスとなるミドルホールは、徹底的にフェアウェイを狭くし、ティーショットでアイアンを持たざるを得ないような改造をする。こういった点は日本のツアーでも参考とし、活かせることだが、明らかにアンフェアと思える措置もある。ほとんどの選手が2オン可能なロングホールは、グリーン奥を滑りやすくローラーをかけ、その奥にまるで長葱のようなラフ群をセットする。さらに、手前の花道から転がしで乗せられないように、地質を柔らかく保ち、それに追い打ちかけるように毎朝夕これでもかと散水するのである。「信じられないこと」だろうが、これは93年にこの目で確かめた事実である。その目で、今回のカレドニアンのセッティングを見つめた場合はどうか。改善されぬままのセッティングでやったなら、間違いなく、グリーンはブーイングの対象となったであろう。つまり、難しいだけでやるほうも、観ているほうも、面白みに欠ける現象が出ることは必至だったのである。

カレドニアン17番ホール 163ヤード PAR3
ティグラウンドでのジャンボ尾崎選手


 「これは、全米オープンでもなければ、日本オープンでもない。トッププロが技の限りを尽くせば、アンダーパーがレコードできるセッティングこそ、日本プロのコースセッティングである」こうしたミーティングが為されたかどうかは定かではないが、実態はオリジナリティたっぷりの21世紀型日本プロを予感させる、新鮮かつクレバーなセッティングとなった。ラフは一見、韮を連想させる手強い印象を受けたが、尾崎健夫のように「8番ぐらいまでなら、スピンもかけられるし、コントロールもきく」という強者もいれば、田中秀道のように「とりあえず残り130ヤードのところに出して、そこからスピンボールでピンを狙って、3ホールをパーセーブしました」という頭脳派も登場して、ラフが深いからといって、決してノーチャンスではない程度に収まった感じを受けた。
 グリーン攻略は、終始優勝争いを演じた東聡のコメントに代表されるように「グリーンは場所によってのバラツキもないし、速くはないけれど、一定という感じで、状態はすごく良いね。パッティングしていて、思った通り行ってくれてる感じです」と、プロたちの評判は上々だった。ただ「やさしい」という表現をした選手が一人もいなかったように、設計者、マイケル・ポーレットが「生涯の自信作」と自負する横長で段差のあるグリーンは、小技の巧さに定評がある田中秀道をしても「段の上にピンがあるホールでは、第2打で打つクラブを想定して、ティーショットで使うクラブを選択する」ほどの神経を使わせた。
難易度の高いコースに謙虚に立ち向かいながらの優勝
 さて、そのティーショットである。距離こそないが、狭くうねっているフェアウェイに対して、ボールをどの位置にどのような球筋で運んでいくかでその後の展開がガラッと変わっていったようである。「意外と神経を使ったのは、1番のティーショットでしたね。ティグラウンドではほとんど感じない風が、上空で確実に強く流れているのがわかっていたから、フォローの時は2番アイアン、アゲンストの時はドライバーといった選択肢があった。それさえ間違わなければ1番も2番も攻略(バーディ獲得可能)できるし、それ以降の流れも作れると思う。でも最初の段階でミスジャッジしちゃうと、あとで焦れば、焦るほど、ボギーの山となってしまうね…」
 歴代優勝者のひとりでありこの優勝を機に米ツアーを転戦してきた佐々木久行はこんな分析をした。その佐々木がドライバーでティショットをしたホールは、18ホール中たった6ホールだったという。その佐々木と3日目に同伴となった片山晋呉もドライバーを握った回数は極端に少なかった。「僕の場合、ドライバーでコントロールショットを打ち続けていると、今度はフルスィングしなくちゃならないホールでボールが飛んでもないところへ飛んでいく危険性があったから、3番、5番ウッドを多用しました。まずは、謙虚にフェアウェイへ運びパーを確保する。さらにチャンスがあれば、バーディを狙いにいく。でも、セカンドでもロングアイアンやウッドを結構使いましたよ。その点でも、ほかのトーナメントではできない勉強させてもらったって感じでしたね」

優勝 佐藤信人選手

 片山は、今回パー5からパー4へ変更された15番でも3番ウッドでティーショットしていた。ドライバーの落下地点のブレが左右に15ヤード以上あっては、このコースでは優勝を狙えるコンディションとはいえなかった。それにしても、あんなゆったりしたスウィングから、どうすれば265ヤード飛ばすことができるのだろうか…。
 最後に、この記念すべき2000年PGAチャンピオンシップの優勝者となった佐藤信人のゴルフを振り返ってみたい。その佐藤と、最後まで優勝争いを演じた東との共通点は、スウィングにも、コース攻略にもテーマを設け、そこに終始おもむきを置いていた点だろう。佐藤は、昨年から、米山剛を年間3勝へと導いた井上透コーチとともに「ダウンスウィング時の極端な沈み込みの修正」や「グリップの補正」に取り組んでおり、東もまた、ジャンボ軍団の合宿中に、川岸良兼に指摘された「トッププロとして決め玉と成り切っていないフェードボール」と取り組んでいた。ふたりは、コースマネージメントに当たってもスウィングでのテーマを優先させていた。自分のスウィングにまだ完成の域にない取り組むべきテーマがあること。
 それが、ふたりに、この難易度の高いカレドニアンのコースに対し、謙虚に立ち向かうことを要求し、また、メジャータイトルからくる重圧を少なからず軽減させるに到った。それにしても、佐藤には良運というものが常について廻ったように思う。少なくとも、セカンド以降のショットでは、東の方が圧倒的気迫をもってピンを攻めていた。ことにもうスコアの上ではほとんど負けが見えていた18番でピンの真上から攻めてきたセカンドショットなどは、佐藤がこれから先立ち向かわなくてはならないプロの世界の厳しさを知らしめた1打だったはずだ。
 佐藤の良運は、彼がネバダ州立大のゴルフ部だった頃「へたくそだったから、洋芝のラフから沢山ボールを打たされました」とラフ対応の経験を積んでいたことと、15番セカンド地点でのあの雷雨サスペンデッドに尽きる。13番、14番と連続ボギーを打ち、完全に優勝の行方がわからなくなってしまった時の33分間のウェイティングタイム。佐藤は、ただ黙々ストレッチングをし、身体を動かし続けていた。言葉はほとんどなく、時折下を向き一点を見つめる仕草は、何かに祈りを捧げているようにさえ映った。再開後、ピンまで167ヤード、6番アイアンで放たれたボールは、佐藤の祈りを受けとめたかのように、ピンそば70センチにピタリと止まった。残り3ホールで3打差。佐藤は「東さんがもっといいスコアを出してくれば、それはそれで仕方がないことだと思いました。僕は、ただひたすらパープレーに徹しようと…」とだけ考えたという。
 『オールドマン・パーを探せ』。かの球聖ボビー・ジョーンズが25歳にして悟ったゴルフプレーの神髄である。「勇猛心を失わず、謙虚に立ち向かえば結果はついて来る…」身をもって証明した佐藤信人の勝利。たぶん、佐藤の目には、このカレドニアンが『神の棲む庭』に見えたことだろう…。


(2000年6月 TAM ARTE QUAM MARTE 29より抜粋)

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